S
昭和五十三年十一月二十二日 朝の御理解
御理解 第六十八節 神参りをするに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃ。いかにありがたそうに心経やお祓いをあげても、心に真がなければ神にうそを言うも同然じゃ。柏手も、無理に大きな音をさせるにはおよばぬ。小さい音でも神には聞こえる。拝むにも、大声をしたり節をつけたりせんでも、人にものを言うとおりに拝め。
御理解 第六十九節 信心はみやすいものじゃが、みな氏子からむつかしゅうする。三年五年の信心では、まだ迷いやすい。十年の信心が続いたら、われながら喜んで、わが心をまつれ。日は年月のはじめじゃによって、その日その日のおかげを受けてゆけば立ち行こうが。みやすう信心をするがよいぞ。
と言うふうに教えておられます。私は今日は、その六十八節と六十九節の、信心は容易と云うことと。信心には、辛抱すると云うことが一番大切だと。
前の教主、三代金光様も、信心の一番大切なことは、辛抱することが一番大切でございます。と仰ておられます。だからやはり辛抱力と云うことが、信心には大事なんです、ね。そこから、容易信心は自と出来て来るし、生まれて来るんだとこう思います。そのところを今日は、聞いて頂こうと思います。
昨日は、午後から相撲見物をさせて頂きました。本当に許されてと云うか、勿論、毎年もう恒例のようになりましたから、綾部さんの招待ですけれども。もう、それこそ下にも置かんと云えばあのことだろうと。徹頭徹尾サービスのと云うか、奉仕の中に。そして終わりましてから、博多の新三浦で、夕食をさせて貰ってから帰って参りました。もう本当に、行きから帰りまで。それこそ正義先生ぢゃないけれども、一緒に正義先生の車ででしたから、参りましたが。車の中で、こう云う間違いないお働きの中に、今日は私共はお使いまわし頂いとるとですよね。と云う言葉が、車の中で出ました。ほんなこっちゃんの、その通りばい。と只、親先生のお供をして、相撲見物をしておるのぢゃない。そう云う神様の、一分一厘間違いのない働きの中に、こう云うおかげを頂いているんだと、ね。本当にお引き回しの中に、あるんだと云う訳なんです。
と云うのもね。大体、一時から出発する筈だった。正義先生が、一時と言うたら一時。まあこの人は、時間を間違えたことがないんです。ですから私は、一時には外へ出て。ここで、一時からの御祈念が始まったから、お礼だけして、皆出てから待っ取りました。ところがなかなか来ませんもん。珍しいことぢゃあるの、正義先生がこげん時間間違えたことがなかがと。と言いよるところに、ものの三十分も待ったでしょうか。それこそ、云うならば息せき切ってと云うところぢゃないでしょうか。宮崎の石川のおばあちゃんと、高千穂の畔地さんが二人で参って来ました。丁度あちらへ、石川のおばあちゃんが行かれましたところが、一つ大きな問題が起きておる。もう家で、電話を掛けたり、家からお願いをするよりか。とにかく畔地さん、もう行く方が早かですがと。親先生のお取次ぎを頂く方が早いですよ。と云うて石川さんに誘われてから、それこそ取るものもとりあえず。まあ、一寸そこからぢゃないですからね。随分、まあ六時間も、七時間も掛かると云う様な所からです、参って見えておる。もし私共が、一時に出発しておったら、それこそお二人の方が、どれだけガッカリされたか知れんと思うですね。
はあ正義先生が遅くなした、と云う。そしてから、あそこに待っとる間、時間がありますから、椅子を二つ出してありましたもん。それで私共は、椅子に掛けて待っておりましたら。畔地さんが、その問題の前にです。話されることです。今朝から、お夢を頂いた。Z『私が真赤な着物を着て、合楽に御参拝をさせて頂いておるところ。そしたら親先生が、御結界を退っておられて、そこでお取次ぎを願う』お知らせを頂いとった。と云うのですね。
私が御結界を退ってから、手洗い鉢の前に椅子を二つ置いて座る。だから横に、畔地さんが腰掛けられて。それからお取次ぎをさせて頂いたんです。そしてお取次ぎを終わらせて頂いて。正義先生が、今日は出ろうと思いよったら出がけに電話が掛かって来た。それも、もう大変おかげを頂く、お仕事の上のことで時間が遅くなった。とこう言うのです、ね。
正義先生もおかげのこと。畔地さん達もおかげのこと。私共が三十分間、神様が待たさせて下さった。わざわざ宮崎から、それこそ赤い気持って、信心の熱情を持たなければ出来ることぢゃありません。何時も、電話でお届けがあるのです。けどこの問題は、電話でどん出来んですばい。とにかくお参りしましょう。私も参るから、あんたもお参りしなさい。と云うて、石川のおばあちゃん同道で、参って来ておるんです。
もう本当に神様の、そう云う働きの中に、私共があああって、こうあっておるんだ。私共が許されて相撲見物と云いよるけれども、そう云う微に入り、細に渡っての御働きの中にあってのことですなあ。と云うことです。
これは、なら私と正義先生だけの事ぢゃないです。これは綾部さんの上にも、一緒に行った、久富繁雄さんの上にも。また合楽に御神縁頂いておられる、全ての方達の上にそう云う働きの中に、日々そう云うお取次ぎを頂いて、おかげを受けておられるんです。
間違いないですなあ、こう言う働きの中に時間を遅くなした中にも、そう云う働きがあるんですなあと、言うことでございます。
向こうへ参りましたら丁度、十両と云うですかね。幕内ぢゃない人達のが、もう始まろうとしている時でした。まあ私共も、その辺から見せて貰えば良いと云うことでしたけれども。昨日、私共は西、東西南北になっておる西の方から見せて頂いたんです。そしたら東方、西方。そしたら綾部さんが、今日は、親先生が西方に座られたから、西の方が違わん勝ちますばいの。と言いよんなさった。皆さんも、テレビをご覧になったら分かるですが。ずーっと西が勝ちましたですね。最後の所で二、三人東方の方が、白星があっただけでした。三人だけでしたかね。もう西側の方がずーっと。これは、やはり神様のそう云う働きの中に、私の動きがあるんだと云うことを、感じずにはおられませんでしたね。そう云う働きの中でです。なら昨日、一日をおかげ頂いて帰らせて頂きましたが。
今日の御理解を頂きますと。この六十八節の、信心には辛抱が一番大切であること。信心は容易ものぢゃが氏子から難しゅうすると。信心しとりゃ、芝居に云っちゃならん。相撲にも行っちゃならん、と云うことぢゃないです。お互いがね。ひとつ許されるまでが、信心辛抱なんです。今日はいっちょ、どうでん相撲見に行きたい。今日はいっちょ、芝居見に行きたい。今日だん、いっちょ飲みたいと言うようなこっちゃないでしょうが。そげなことは贅沢な、と云うことぢゃないです。もう、それこそ新三浦に参りましてから。行くたんびに、何時も教えられるんですけど、勿論あそこは、昔からかしわの水炊きで有名な所ですけれども。もう本当に、何と云うでしょうかね。まあこれが、この世で一番美味しいもんだろうか。と云うような、その感じで。しかもそれこそ、腹いっぱい頂かせて頂たんですけれども。信心させて頂いとると窮屈なと、自分の思うことも出来ん。ぢゃなくてです。思う以上のおかげが頂かれるまでが、信心辛抱です。
信心しよるなら、ああしちゃならん、こうしちゃならん。と云うことはないです。もうこげな有難くして、楽しくして、しかも愉快になるとは、そう云うことも含まれて来るです。
そこでです。お互い、こうして信心をさせて頂いておりますが。そう云う、例えば辛抱とても、例えば苦しければ、苦しけれども有難い。と云う信心を、続けさせて頂いて、身に付くと云うなら、どう云うことが身に付くか。どう云うことを、体得しなければならないか。
私は昨日、相撲を見せて頂いた。私は、相撲のことは分かりませんけれども、見せて頂いて感じたことは。とにかく本気で、取り組まなければならないと云うことです。立ち上がりが大事、そして取り組む。そして良い姿勢になった方が、やはり勝つんです。これを例えば、取り組みもせずに。例えば、信心させて頂くと、様々な問題に取り組みます。もう毎日毎日が、その取り組みなんです。だから、どっこいと取り組む姿勢が出来ておれば、必ず勝のです。信心はそう出来ているのです。
どう云うめぐりが出て来うが。どう云う難儀が、突発的に出て来うが。こちらが構えさえ出来ており、良い取り組みさえ出来ておれば勝のです。それば、こわごわと取り組んだり、じわっと取り組んだりしよるけん、めぐりにやられてしまう事になるのです。容易い信心、有難い信心。そう云う信心になるためには、とにかく取り組みが大事です。一つの難儀なら難儀。問題なら問題に取り組む。どう云う風に取り組んで行くか。もうとにかく、投げられだんせんぢゃろうかと、びくびくした様なことで、ね。それこそ難儀との、立ち会いであり、同時に取り組みであり。云うならば、こちらが良い姿勢で、それに取り組んだ時にはです。やはり勝つように出来ておるんです。
例えて申しますと。以前に頂いたんですけど、正と邪と。云うならめぐりが五十、神様の働きが五十。信心の力を頂いているのが五十、めぐりが五十。なら五十と五十のものが出会った時にです。正しい、正の方が必ず勝ような法則があると云うことです。同じ五十と五十の力であってもです。こちらが、だから本気で、その問題に取り組まして貰う。勿論、信心で取り組ませて頂いた限り、必ずめぐりの方が負けるようになってるです、信心は。それが相撲の道の上に於てでもです。やはり取り組みが良い。パット下手から行って、相手のふんどしを捕まえて。今度あれが、勝ばいなあと言いよると必ず勝です。どげん力が強かってん、相手の首どん握っとるとは、ころっと負くるです。
だから私は、今日は皆さんにね。相撲の土産ぢゃないけれども、私は分からせて頂いたことは、取り組みがしだごだであったり、取り組みが本気での取り組みが出来ていないなら、信心は術ない。しるしい事になって来るです。愈、信心が容易ものになって来ないです、ね。
そこでです、その取り組む手立てと云うか。または技と言っても良いかも知れませんね。いろんな技も体得し、覚えて参りますと楽しくなって来る。そこでです。あなた方は、合楽でど云う信心の稽古をなさりよるか。合楽の先生は、どう云うことを教えられるですか。と、もし問われたら、皆さんどう答えられるですか、ね。
あなた達は、熱心に合楽に参んなさるが。合楽はよっぽど素晴らしいでしょう。どう云うことを教えられますか。と、自分がね、それを本当に行じておらなければ、答えが出来んです。
今日は、御理解はこげんでしたよ。そげなことぢゃ、納得いかんです。私は思うですけどもね。例えば合楽で教えられることは、どう云うことかと云うと。合楽の先生はですね。もう何時も絶えず云われることは。人間は、云うならば土と水から出来ておる。土に始まって、土に還る。水に始まって、水に還ると云われる。だからその道中とても、この水、土の生き方を体得する以外にはないよと。と云うて水の心とは、土の心とはと云うことは説かれん。私はこれで良いと思うです。はっきり言われる信心です。それでそれを説明したら、合点がいかん筈はないです。
人間は、土より出て土に還る。その途中をです。自分の良い加減のことではなくて。その土の心を体得し、水の心を分からせてもろうてです、ね。土、水の心と云うそこから人間本来の、生神の性根と云うものが、いよいよ発揮されるようなおかげが受けられる。
とにかく人間の心の中には、生まれると同時に生神の芽がある。それは柿の種の中にも、ちゃんと芽があるように。それを種のままに置いてはならない。人間も、その生まれたままではいけない。その生神の芽を、愈生神足らしめる生き方は。とにかく私共は、土から出て土に還らせて頂くのだから、その道中とても土の心を持ってする以外ないんだ。土の心を持ってする以外はない。それを楽しゅう、しかもあらゆる角度から。それを本気で、そう云う取り組みをさせて頂いたら。ああ成程、合楽の信心と云うのは、もう黙って治める。云うならば土の心。とにかく素直になる以外にはない。云うならば、水の心を体得させてもろうてて、愈素直になろう。愈黙って治められる、私に成らせて頂こうと云う生き方を、日々の生活の上に頂き表わして行くと云うこと。
合楽では、そう云うことを教えられます。云うなら、ホウーと云うて皆たまがらしませんでしょうが。別に信心臭いことを、お話をしなくても、これなんです。合楽のこれが芯です。と人に伝えられる為には、自分自身がその体験を。もう土の心になれば、こんな素晴らしい。水の心になれば、こんなにも楽なんだ。と云う体験を持って、もう合楽の信心はこれに極まったと云う生活、信心生活が出来ておるならば。私はそれより以外に、合楽ではどう云うことを教えよんなさるな。と云うたら、それ以外にないのぢゃないだろうか。この教典を全部読んで、聞かせてんなんてんいらんと云うこと。そりゃ難かしかと。いえ、それがいっちょん難かしかことはなかです。毎日毎日、そのお話を聞かせて頂いておると、それが楽しゅうなして有難うして。結果に於ては、こう云うおかげになって来るから有難いですよと。
私は、示現活動をさせて頂く時に、そう云う話をされると云うことは。自分が勿論実験し、自分が体験し。その実験したことを、人に伝えて行くと云う。
今朝から私は、こんなお夢を頂いた。Z『私と秋永先生と、あちらの長男の徹君と、嘉朗さんが、四人が出て来るお話なんです。と云うのは、大体嘉朗さんに、玉串をあげさせることになっておった。何かのお祭りのようです。けれども徹君に上げさせたら、この人が信心になる様にと思うて、私が徹君に上げさせた。そしたら秋永先生が、えらい腹かくんです。私はね、大体は嘉朗さんに上げさせるつもりぢゃったけど、徹がああして信心にならんから。神様に近づかせて頂く為に、人間心を使うてから徹に上げさせた。そんならそのごと云うていて貰えばこっちも考えがあったところにと云うてから。えらいプンプンして腹かくところ』を頂いた。ところで目が覚めた。云うならば私の人間心、けれどもね、なら神心とか、神ながらと云うことの内容の中には、最高の人間心と云うものが出て来るのです、ね。もう嘉朗さんな、好かんけんで上げさせぢゃったと云うことぢゃないです。嘉朗さんはもう信心が出来とるから、徹が信心が出来んから、徹に玉串を上げさせたら、いかにも神様に近づく様になるだろうから、私が徹さんに、その徹さんに玉串を上げさせたと云うことが、その腹が立つ。大体自分の息子に上げさせて頂いたつぢゃから、本当は喜ばんならんところぢゃけれども。夢の中では、それを腹かいた。こうして信心の稽古をさせて頂いておるとです。ならこれは親先生の、人間心だろうと云うことにも触れるわけです、ね。
そう云う時にです。云うならば、それはあなたの事を考え。あなたの家の事を考えてのことなのだからと、私はそこを、もう一つ分からなければいけんと思うです。
信心の稽古をさせて頂くと。結局、私は皆さん対と云うことになりますから。私の信心を信じて下さらなければ、云うならば良いお取次ぎを願うと云う事は出来ません。例えば親先生が人間心で言いよんなさると致しても。それを神ながらと受ける方の側は、受ける信心が必要。そのために水の信心、親先生が右と仰れば右、左と仰れば左というおかげを頂かせて貰わなければなせん。
このことはある一つの問題ですけど。その内容は、本当云うたら、私は秋永先生自身のことを思うて。信徒会長としての立場もあるから、私がそうさせて頂いたのぢゃけん。説明を聞くと、ああそうかと云うことになるんだけれども。先生が人間心を使うたと言うて、腹を立てると云うことでは、おかげにならない。と云うことなんです。だからそう云うところも、ならあるんですよ。親先生の神心の所は有難く頂けるけれども、先生が人間心使いなさるところでは頂けない。と、云うたら、もう信心は難かしうなり。いらいらしたり、腹が立つったり、と云うことになるのです。
今日は、六十八節の信心には、辛抱することが一番大切。いかにもこれは難かしい様にある。ならそれかと云うて、次の六十九節には、信心は容易ものぢゃがと、全然反対のことを教えておられる様な感じがするんですけれども。今日の話を頂いて、信心も。信心辛抱も、信心は容易と云うものも一つにして、よく考えて頂いて、信心と云うものが有難いと体験するなら。なら合楽では、土の心、水の心になること。そのことを、あらゆる角度から説かれる。またそれを自分達も、日々体験させて頂いて、こう云う良いものが生まれて来る。と云うおかげを、皆さんも体験されるところまで行った時に、信心は容易ものであり、信心辛抱と云うことはどう云うものであるか。そこから昨日の、相撲のそれこそ話しぢゃないけれども。ことごとに云うならば取り組むと云うこと。その問題に本気で。只、取り組むと言うだけでなくて、信心で取り組むと云うこと。これによって稽古をさせて頂く。これによって力を受けると云う。云うならば、本気での四つに組んだ、難儀とこう四つに組んでの取り組み。そこには必ず勝たせて頂けれる理があると云うことを、今日は聞いて頂きました、ね。
どうぞ皆さんが、合楽でどう云うことを合楽で教えられるか。今日、皆さんに聞いて頂いたこと、たったそれだけのことで良い。為には、それだけのことが実行出来よらなければです。また体験を生んで行きよらなければ、実感としてお話も出来ん事になりますよね。どうぞ。